同じメーカーが、また炎上した
2026年5月28日、大手AVメーカー・SODクリエイトが配信した一本のVR作品が物議を醸した。舞台はインドネシア・ジャカルタの「置屋」。作品紹介文には《おそらく〇童売春》《1〇歳以上は熟女。そんな認識らしい》という伏せ字混じりの記述が並び、児童買春を想起させる内容だとしてSNSが騒然となった。
FANZAでは4日昼時点で作品ページが閲覧不能となり、在インドネシア日本大使館は「大変残念なこと」とコメント。しかしSODクリエイトは公式Xの宣伝投稿を削除せず、記事執筆時点でも《ジャカルタが、今、熱いらしい》という文句が残っている。
「また同じメーカーか」と感じた人は少なくないはずだ。
2024年3月、SODクリエイトは韓国人DJ・DJ SODAの性被害事件を想起させる作品を発表し、発売中止に追い込まれた。2026年3月には、能登半島地震の避難所における性被害問題を想起させる作品が炎上した。そして今回、東南アジアの児童買春という現実の問題をモチーフにした作品が問題視された。
2年足らずの間に3度。同じメーカーが似たようなパターンで批判を受け続けている。
ここで単純に「SODがけしからん」という結論に飛びつくのは簡単だ。しかしこの問題にはもう少し複雑な側面がある。AVという表現ジャンルが長年持ってきた「タブーへの接近」というクリエイティビティの問題として、もう少し丁寧に考えてみたい。
AVは「攻める」ことで面白かった
AVのパロディ文化の歴史は古い。1988年に映画『アンタッチャブル』をパロディした『アンタッしゃぶる』、1989年に『となりのトトロ』をパロディした『となりのドロドロ』—バブル期の日本では、メジャーな映画やアニメをもじったタイトルとパッケージが量産された。著作権的にグレーなことは百も承知で、それでも作られ続けた。
これは単なる便乗商法ではなかった。権威あるもの・社会的に認められたものを性的な文脈に引きずり込むというユーモアには、一種のカウンターカルチャーとしての機能があった。「聖なるもの」を「俗なるもの」に引き下ろすことで笑いが生まれる—これは洋の東西を問わず、コメディや風刺が持つ本質的な構造だ。
お笑いの世界でも「不謹慎な笑い」は常に議論されてきた。タブーに触れることで生まれる笑いは、社会の緊張を和らげる安全弁として機能するという見方がある。触れてはいけないとされるテーマほど、それをネタにしたときのカタルシスは大きい。AVはその最も過激な表現形式として、長年そのカタルシスを担ってきた側面がある。
1990年代から2000年代にかけては、芸能人に似た女優を起用した「○○似」作品、政治家や社会的著名人をモチーフにした企画、そのときどきの社会的事件や流行をネタにした作品が次々と生まれた。制作者側も視聴者側も「どこまで攻めるか」というゲームを楽しんでいた部分があった。
AV評論家や業界関係者がよく使う言葉に「エロには自由があった」というものがある。地上波では絶対に流せない、雑誌では掲載できない、映画では表現できない—そういう「正規の表現空間から弾き出されたもの」の受け皿としてAVは機能してきた。規制の外にあることが、逆に表現の豊かさを生んでいたのだ。
その意味では、「崖っぷちに立つ」という感覚はAVのクリエイティビティの核心にある。崖の手前ギリギリに立つことで生まれる緊張感と解放感—それが一部のAV作品が持つ独自の面白さだったと言っても過言ではない。
「崖っぷち」と「崖から落ちた」の差
では今回の案件は過去の「攻めた」作品と何が違うのか。
整理すると、成立する「攻め」と失敗する「攻め」の間には、一つの明確な軸がある。「笑いの矛先が誰に向いているか」だ。
架空のキャラクターや作品のパロディ、権力者・強者への風刺、社会現象への批評的なユーモア—これらは「強いもの」「虚構のもの」に向けられた攻めだ。『となりのドロドロ』が笑えたのは、矛先が「国民的アニメ」という権威に向いていたからだ。誰かが傷つくわけではなく、タブーを破るカタルシスだけが残る。
一方、成立しない「攻め」はその矛先が逆を向いている。実在の被害者・弱者・マイノリティに向かうとき、笑いはカタルシスではなく加害になる。
DJ SODAの件は性被害を実際に受けた人物を想起させた。被災地・避難所の件は、実際に報告されている避難所での性被害問題を想起させる内容だった。そして今回のインドネシアの件は現在進行形で存在する児童買春という犯罪行為と、その被害を受けている子どもたちの実態を「興奮の素材」として消費した。
いずれも共通しているのは、「現実に傷ついている人がいる」という点だ。
不謹慎な笑いが成立するための条件を、コメディの世界では「パンチアップ」と呼ぶことがある。笑いの矛先を自分より強いもの・大きなものに向けることだ。逆に弱者・被害者に矛先を向けることは「パンチダウン」と呼ばれ、笑いとして機能しない。AVの「攻め」も同じ構造で考えることができる。
崖っぷちに立つ表現は、崖の下に誰かを突き落とすことではない。自分が崖っぷちに立つスリルを楽しむことだ。今回の一連の案件で問題なのは、SODクリエイトが崖の下に実在の被害者を置いたままスリルを楽しもうとした点だ。
もう一つ見落とせない視点がある。繰り返される炎上を、単純に「モラルの問題」や「配慮の欠如」として片付けるのは少し単純すぎるかもしれない。
制作側がDJ SODAの性被害を知らなかったはずはない。被災地で多くの人が苦しんでいることを知らなかったはずもない。今回の東南アジアの児童買春についても、在インドネシア日本大使館が注意喚起を出すほど現実の問題として認知されていた。知らなかったのではなく、知っていた上で「このくらいなら大丈夫だろう」という判断をした可能性の方が高い。
つまり問題は想像力の欠如ではなく、「炎上してもビジネスとして成立する」という構造にあるのかもしれない。炎上はむしろ宣伝になる。問題視されれば注目が集まり、発売中止になっても「存在したこと」は記憶に残る。批判するユーザーの数とそれでも見たいというユーザーの数を天秤にかけた上で、ギリギリのラインを攻めているとしたら—それは「モラルの問題」や「配慮の欠如」ではなく、冷静な計算だ。
だとすれば、炎上を繰り返しながら懲りないことの説明がつく。そしてその構造を変えるためには、「批判の声」だけでは不十分だということにもなる。
攻めることが業界全体の首を絞める
ここで一つの逆説が生まれる。
「崖っぷちに立つ」表現がAVのクリエイティビティだとすれば、その崖を守るのも制作者自身の責任だ。炎上を繰り返すことは、業界全体の表現の幅を狭める方向に働く。
AVを取り巻く規制の歴史を振り返ると、そのほとんどは「やりすぎた」事例への反応として生まれてきた。モザイク規制の強化、出演者保護を名目とした制作プロセスへの介入、プラットフォームによるコンテンツ審査の厳格化—いずれも「業界が自ら踏みとどまれなかった」結果として外部から課されたものだ。
AV新法もその一例だ。出演者への強要という実態が社会問題化し、「業界に任せておけない」という判断が立法につながった。結果として制作本数は大幅に減り、新人・中堅女優の仕事が失われ、海外流出という副作用まで生んだ。守るために作られた法律が、別の形で業界を追い詰めた。
今回のSODクリエイトの件も同じ文脈で読める。炎上が「計算の範囲内」として繰り返されるなら、やがて「計算では済まない」規制が来る。児童買春を示唆するコンテンツが大手メーカーから出続ければプラットフォームは審査を厳しくし、行政は規制強化の口実を得る。攻めることが、攻める余地そのものを削っていく。
崖っぷちに立つ自由を守りたいなら、崖から落ちないための判断を自らしなければならない。それは自主規制という名の後退ではなく、表現の場を持続させるための知恵だ。
崖っぷちに立ち続けるために
AVというジャンルが持つ「タブーへの接近」というクリエイティビティは、本来守られるべきものだと思う。架空の権威を引きずり下ろす笑い、社会の緊張を解くカタルシス、正規の表現空間では描けないものを描く自由—これらはAVという表現形式が長年担ってきた、固有の価値だ。
問題は「攻めること」ではなく、何に向かって攻めるかだ。
強いものに向かう風刺と、傷ついた人に向かう消費は、同じ「不謹慎」という言葉では括れない。そしてその判断を「炎上してもビジネスになる」という計算に委ねている限り、いつか外部からの規制という形で答えが返ってくる。
今回のSODクリエイトの一連の炎上が示しているのは、特定のメーカーの問題だけではない。業界全体が「どこで踏みとどまるか」を真剣に考える時期に来ているということだ。
崖っぷちに立ち続けるためには、自分がどこに立っているかを知らなければならない。


